マンダラ 曼荼羅
「空」について


インドでの基本概念

 仏教でいう「空」には時代や学派によっていくつかの概念にまとめられる。しかし、その根本的な部分ではほぼ変わらない。固定的実体もしくは「我」の無いことや、実体性を欠いていることを意味する。
 原語のシューニャは、「…を欠いていること」の意味である。
 数学においては、インド人によって世界史上最初に発見されたゼロを表す。このゼロという概念によって、十進法が可能となり、負数(マイナス)の概念も確立し、それはアラビアを通じて近代のヨーロッパに伝えられ、近代数学が誕生し、現代の自然科学や技術その他も開発され進展した。
 このzUnyaは、zU(=zvA、zvi):成長、繁栄を意味する動詞からつくられたzUnaから発展して、空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろなどを意味し、初期の仏典にもその意味で登場することがある。


仏典の用例
◾「自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ」『スッタニパータ』や「空虚な家屋に入って心を鎮める」『法句経』
◾「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空ではない(残るものがある)」『小空経』(中部経典、中阿含経)
欠如と残るものとの両者が、「空」の語の使用と重なり説かれている。これから「空」を観ずる修行法が導かれ、空三昧(ざんまい)は無相三昧と無願三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門(さんげだつもん)とも言う。
またこの用例は特に中期以降の大乗仏教において復活され、その主張を根拠づけた。また『大空経』(中部経典、中阿含経)は「空」の種々相(たとえば内空と外空と内外空との三空)を示す。さらには、「空」と縁起思想との関係を示唆する資料もある(相応部経典、雑阿含経)。部派仏教における「空」の用例も初期仏教とほぼ同じで、上記の段階では、「空」が仏教の中心思想にまでは達していない。


般若経の空

 『般若経』が説かれて初めて大乗仏教の根幹をなす教えが完成した。その中で、「空」が繰り返し主張されている。その原因の一つはこの経が批判の対象とした説一切有部の教えが、存在を現に存在するものとして固定化して観ずることに対して、厳しい否定を表し、いっさいの固定を排除し尽くすためのことであろうと考えられる。般若経の「空」は、このようにすべての固定的観念の否定することを主目的としている。





龍樹の空観

 この「空」の理論の大成は龍樹(りゅうじゅ)の『中論』などの著作によって果たされた。  龍樹は、存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの関係性の上に成り立っていることを論証している。この関係性を釈迦は「縁起」として説明しているが、龍樹はより深く一般化して説き、関係性に相互矛盾や相互否定も含みながらも、相互に依存しあっていることを明らかにした。これを「空」もしくは「空性」と呼んでいる。
 さらに、関係性によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するというユニークな実体(=自性)はないことを明かしている。これによって、縁起によってすべての存在は無自性であり、それによって「空」であると論証しているのである。龍樹の「空」はこれから「無自性空」とも呼ばれる。
 しかし、これら関連性は現象面を人間がどのように認識するかとは無関係のものである。これを人間がどう認識し理解して考えるかについては、直接的に認識するということだけではなく、人間独自の概念化や言語を使用することが考えられる。龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
 この説が中国などでは、直接認識した世界と、言語によって概念的に認識した世界を、それぞれ真諦と俗諦という二つの真理があるとする。言葉では表現できない釈迦のさとりは真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとする、二諦説と呼ばれる。
 さらに、龍樹は「無自性空」から「中」もしくは「中道」もほぼ同義語として扱い、釈迦の中道への回帰を説いている。

般若心経

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